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2007.07.04 Wednesday  | - | - | 

『退屈姫君 恋に燃える』 米村 圭伍 新潮文庫 (聖月)

退屈姫君 恋に燃える
退屈姫君 恋に燃える
米村 圭伍

 いやあ、退屈姫君シリーズ、相変わらずのお気楽面白さである。読書はひとつの娯楽であることを思い出させてくれる。

 ところで、最近、米村圭伍を読みたいのだけど最初から順番に読まないと駄目?って記事があったので、評者なりの回答を述べておくと、勿論、作品が出版された順に追いかけるにこしたことはないが、とりあえず退屈姫君シリーズを中心に楽しみたいという方には、デビュー作『風流冷飯伝』と二作目『退屈姫君伝』だけは順番に読んで、あとは特に順番に拘らず読んでも構わないかと思う。最初の二作で、この作家の風流でいとおかし雰囲気の全容がわかるし、その後の作品の基礎になる設定もほぼ網羅されているからである。特にシリーズ三作目の本書『退屈姫君 恋に燃える』をいきなり読むのは勿体無いかな。
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2005.10.30 Sunday 16:34 | comments(0) | trackbacks(2) | 

「空色勾玉」荻原規子 written byすの



「空色勾玉」荻原規子(1988)☆☆☆☆☆
※[913]、国内、古代、上代、小説、児童文学、ファンタジー、ハイファンタジー、古事記、延喜式、光と闇

この本も何度読み返したことだろう。初めて読んだのは大学時代、所属していた児童文学サークルの読書会。作者は同じ学部学科卒の先輩。あとがきで作家本人語るようにこの作品は、よき日本のハイ・ファンタジー(本格ファンタジー)。その後、同氏は出版社を変え、「白鳥異伝」「薄紅天女」、空色三部作と称される作品を発表する。どの作品も同じ勾玉をモチーフにした単独作品。それぞれがとても素敵な物語でどれもオススメ。今回は、久しぶりに同氏が上梓した時代ファンタジー「風神秘抄」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/14164051.html ]を読んだことをきっかけに再読してみた。

この作品は大人も楽しめる、日本の古代の伝承、風俗を土台にしたハイファンタジー。しかしこの作品は、児童文学として漢字にルビ(ふり仮名)をふって出版したことが、作品を最も活かす形態であったと改めて感じる。高光輝大御神、照日王、月代王、闇御津波大御神、輝の御方、闇の氏族、大蛇の剣・・・これらの言葉を見たままの漢字で読んだとしても、素晴らしい作品である。しかしこれらの言葉にルビがふることで「たかひかるかぐのおおみかみ」「てるひのおおきみ」「つきしろのおおきみ」「くらみつは」「かぐのおんかた」「くらのしぞく」「おろちのつるぎ」と、作家の意図する、上代(=仮名以前時代)のことばで、読者は読むことができる。この読み方が作品の世界にリアリティーを増し、またその世界に読者を引き込む。とくに「闇」を「やみ」でなく「くら」と読ませること、その音のやわらかさが、この漢字の持つマイナスのイメージを払拭させる。この作品では「光と闇(やみ)」というふたつの対立がテーマであるが、西洋のファンタジーのそれと違い、簡単な二元論ではわりきれないものとなっている。闇=悪ではない。このことがこの「くら」という音の選び方によって支えられている。

羽柴の郷の十五歳の娘、狭也。幼い頃、餓死寸前で山をさまよっていたところを拾われた。小さい頃から同じ悪夢にうなされていた。いつも六歳の狭也が五人に鬼に追われるというもの。歌垣の夜、ついに狭也は生意気な少年、鳥彦をはじめとした五人の鬼に出会う。歌垣の楽人を名乗る彼らの正体は、狭也たちの村が信奉する輝の御方に敵対する闇の氏族。狭也を、闇の氏族の水の乙女の継承者、狭由来姫の生まれ変わり、闇御津波大御神に使える巫女として、迎えに来たという。
光と闇の物語。それは天地(あめつち)のはじめの物語。男神と女神が力を合わせ豊葦原の中つ国を生み、国中を八百万(やおよろず)の神々で満たした。最後に火の神を生んだ際の火傷がもとで女神は黄泉の国へ隠れた。女神を取り戻しに死の国へ向かった男神だが、その変わり果てた姿を見て地上に逃げ帰る。そして千引の岩で通い路を塞ぎ、女神と永遠に縁を切ったのだった。そのときからこの二柱の神々は天と地に別れ憎しみあうようになった。光と闇が別れたのだ。大御神は女神を憎むあまり、照日王と月代王という不死の御子を地上に配し、ふたりで生んだ八百万の神をこの地上から一掃し、全てを光の統治の下に治めようとしている。しかし、それは殺戮と略奪の統治。すべての生命は大地によって育まれている。そして、それは二柱の神が生んだ山川の神々があればこそ。しかし、今二人の御子神はそれらの神々をなきものにしようとしている。一緒にこの豊葦原の命を守るため闘ってほしい。岩姫という老婆が、狭也に語りかける。
しかし、狭也はその申し出を断る。わたしはこの村で、長い間輝大御神を信じて生きてきた。大御神に刃向かう人がいるから戦が起こるのだ。申し出を断られた闇の氏族の五人は、狭也を迎えにきた時期が遅すぎたことを知り、空色の勾玉を狭也に残し去っていく。ひとり残された狭也は、行くべき場所もなく、また自分が村の人と違うことの孤独を知り、山中をあてもなく歩き続けた。そして大御神の二人の御子の一人、月代王に出会う。狭也は月代王の采女としてとりたてられるであった。
狭也の輝の宮での、采女としての日々。大いなる神の御子にとって、狭也はたくさんの采女のなかの一人であって、狭也が夢見たようなたった一人の相手ではなかった。そんな狭也を闇の氏族のひとりとして、冷たい視線を向ける月代王の姉、大御神の御子の一人、照日王。
ある日、狭也のもとにおつきの童として、鳥彦が現われた。しかし、鳥彦は照日王によって大祓いの生贄である形代に選ばれてしまう。鳥彦を助けるために宮の中を探しめぐる狭也。そこで出会ったのは大御神の第三子である稚羽矢。照日王に縄で縛められていたのであった。不死の神々をも倒すことができる剣、大蛇の剣(おろちのけん)の遣い手、稚羽矢と、大蛇の剣を鎮める水の乙女、狭也との出逢いであった。
狭也とともに輝の宮を抜け闇の氏族のもとへ向かう稚羽矢。闇の氏族の古い言い伝えによれば、大蛇の剣を自在に操り振るうことのできるたった一人の者を、風の若子と呼ぶ。闇の側に水の乙女と風の若子の二人が揃った。
闇(くら)と光の最後の決戦の火蓋が、いま落とされようとする。最後に勝つのは、闇か、光か・・。

この作品の魅力を語りだせば、きりがない。まず古代の伝承「古事記」「延喜式」といった上代文学を土台にした、リアリティーにあふれる、構築されたファンタジーの世界。光と闇、天と大地、不死と限りある生命、しかし、その生命は移り変わり繰り返される、男と女・・・種々な二つの対が単純な二元論に終わらず、求め合うように、魅かれあうようにすすむ、骨太で壮大な物語。この物語には絶対の正義や悪はない。
そして、この物語を支える丁寧に書かれた魅力的な登場人物たち。
闇の氏族の巫女でありながら、それを知らず輝を信奉する村で育った狭也。出会う人々と、出会う事件を通し、揺れ動く心。
大いなる力を持つ不死の神の御子でありながら、限りある生をしか持たぬ闇の氏族の人々とともに、狭也とともに輝の軍と戦う稚羽矢。輝の御子として、そして不死の力があるゆえに疎まれ、不死の力ゆえに生ありながら、死の苦しみを味わう運命。
命を落としたあとも、狭也のためにカラスに身を移す鳥彦。(鳥彦はこの後、鳥彦王を名乗り、この存在は「風神秘抄」につながる)。不器用な稚羽矢に稽古をつける開都王、この師匠と不出来な弟子の関係というエピソードが、作品のなかでおこる哀しい事件を際立たせる。あるいは狭也のおつきの女性、奈津女とその夫、柾の物語。神々はその大いなる存在ゆえに残酷なまでに「情(なさけ)」が無い。はっとするような行動、事件も神々の論理の中では些事に過ぎない。その神々である大御神の御子である輝日王にしても、月代王にしても、大御神という神の下では、小さな存在。その哀しみ。黄泉の国の女神の存在感。そしてさらに古いわだつみの神。

ボーイ・ミーツ・ガール、あるいはガール・ミーツ・ボーイ、少年少女の恋愛譚、そして若者の成長譚も忘れてはいけない。しかし、この最後は本当にハッピー・エンドなのだろうか?

単純でない構図のこの物語を読むとき、ぼくたちは「物語」のおもしろさを味わい、「物語」に秘めた作家の想いを知り、そして人が生きるということの意味を考えるだろう。この作品は物語好きな人に、本当にオススメだ。

蛇足:決して似ている訳でないのだが、同じ古代に舞台が重なる当時ぶーけに連載していた「イティーハーサ」水樹和佳が思い出される。とてもよいハイ・ファンタジーコミックであった。
蛇足2:西洋の、光と闇の戦いを書いた作品もおもしろい。「光の6つのしるし」スーザン・クーパーに始まる、「闇の戦い」シリーズもオススメにあげておく。
蛇足2:本感想を書き上げた際に、本書について書かれたとても素晴らしい書評(ブログ)があったので、ここに勝手に紹介する。「ぽちぶくろ」[ http://pochimi.cocolog-nifty.com/pochi/2004/12/post_4.html ]。
2005.10.29 Saturday 14:05 | comments(0) | trackbacks(1) | 

女盗賊プーラン(プーラン・デヴィ) 草思社 ・・・ゆこりん


貧しく、低い身分。11歳のときに30過ぎの男やもめと結婚させられ、ひどい虐待を受ける。その後離婚するが、レイプ、村八分と彼女に対する迫害は続く。やがて彼女は盗賊団に加わり首領にまでなるが、その後投降。そして国会議員の道を歩む。プーラン・デヴィという一人の女性の波乱に満ちた人生を描いたノンフィクション。

インドのカースト制度。それが根強く残る中での過酷な生活。まるで物語を読んでいるようだった。一人の女性に起こった出来事。これが事実だなんてどうしても思えない。それほどひどい内容だった。だが彼女は、どんなひどいことが自分に起ころうとも、決してくじけることはなかった。その強さには驚かされた。この本では、彼女が国会議員になり、命を狙われているため24時間体制の警護を受けているというところまで知ることが出来る。(1997年出版)
残念ながら、彼女は2001年7月25日に自宅前で暗殺された。同じような苦しみにあえぐ人たちを救おうとする志し半ばでの死だった。とても無念だっただろうと思う。この世の中から、身分や貧富の差がなくなってほしい!そう願わずにはいられなかった。
2005.10.23 Sunday 16:24 | comments(0) | trackbacks(0) | 

『海辺のカフカ』 村上春樹 新潮文庫 (苗村屋)

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を彷彿とさせる2つの世界の物語。『世界の終り』でも書いたが、複数の世界が最終的にひとつに結びつくというのは大好きな構成。単行本の発売当初にはいろいろと話題になったのであろうが、読み始めるまでは構成や登場人物など全く予備知識がなかったので、素直にわくわくしながら読み進めることができた。

 物語は、15歳の家出少年・田村カフカと、少年期の事故のせいで文字が読めなくなったナカタさんの2人を中心に紡がれていく。『世界の終り』では、世界の2つともが非現実的であったが、今回はカフカ少年の世界はとても現実的。高速バスで高松へ向かうところなど、あまりにも現実的過ぎて村上春樹らしくなとと思ってしまったほど。一方のナカタさんの世界も、最初は戦時中の描写から始まり、村上節ではない。だが、こちらの世界は物語が進むにつれ、ナカタさんが猫と話をしたり、空から魚やヒルが降って来たりと、少しずつ村上ワールドに染まって行く。

 物語が進むにつれ、2つの世界における共通点がでてくる。例えばカフカ少年のTシャツの血とナカタさんが刺し殺したジョニーウォーカーの血。また、カラスと呼ばれる少年とナカタさんの薄い影も関係するのかと思ったが、これは深読みのし過ぎであった。「影」といえば、『世界の終り』でも非常に重要な役割を負っていた。また「図書館」も『世界の終り』の象徴的存在。『海辺のカフカ』という物語が2つのパラレルワールドを織り成しつつ、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』というもうひとつのパラレルワールドとも錯綜する、2重のパラレルワールドと読むのは、考え過ぎだろうか。私にはカフカ少年がラストシーンで訪れる森の中の世界が「世界の終り」に思えてならなかった。

 更に物語が進むと、現実的であったカフカ少年の世界が非現実的になってくる。恋人をなくしてしまった女性の15歳の姿をした幽霊(しかもその女性は存命している)が出て来たり、不思議な森に足を踏み入れたり。『悪童日記』のような、現在形で淡々と語られるのも面白い。一方、非現実的であったナカタさんの世界は、ホシノ君と出会って四国を目指し始めてる辺りから現実味を帯びてくる。どこで物語が交差するかと心待ちにしていたのだが、やはり、物語のポイントとなるのは「図書館」であった。

 気になるのはこの交点へ至るまでの過程である。ナカタさんという不思議なキャラクターのおかげで幾分薄まってはいるが、ナカタさんが四国へ行き、「入り口の石」を見つけるまでの過程は随分と御都合主義的である。特に四国に到着してからは、偶然の積み重ねが多すぎて「偶然嫌い」の私には我慢が出来ない内容である。ここまで物語を書き込んできたのだから、もう少し長くても必然的な過程にすればよいのにと思ってしまう。作者の意図としては「偶然」を積み重ねることによって、不思議な世界の「必然」を立脚させようとしたのかもしれないが…。

 カフカ少年の成長譚としても楽しめるし、「入り口の石」を捜し求める辺りは多分にRPG的でもある。読者を楽しませる要素がふんだんに盛りこまれているのは、一流のエンターテイナーの証左といえよう。しかし、である。2重世界という『世界の終り』と似たような構成にしたからには『世界の終り』を凌駕する物語にして欲しかった。ページを繰る手を止められず、一気に読めた作品なのだが、村上春樹の作品は一気に読めてしまってはいけない様にも思う。これも作者の意図なのだろうが、ラストの曖昧さも迫力不足であった。非常に面白い作品であるし、お薦めなのだが、あえて評価は○としたい。

■Amazonで購入
■苗村屋読書日記
2005.10.23 Sunday 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) | 

「風神秘抄」荻原規子 written byすの



「風神秘抄」荻原規子(2005)☆☆☆☆☆
※[913]、国内、中世(平安時代)、小説、ファンタジー、中世、舞、笛、鳥の王、物語、児童文学

勾玉三部作の番外編とも言える、荻原規子の時代ファンタジー。今回は前三部作での同一テーマ、勾玉は出てないのだけれど、日本の近代以前の時代を舞台にした時代ファンタジーとしては一連の流れと言える。

久々に、とてもよい「物語」に出会えた。600ページ近い厚さは、ちょっと腰が引けた。しかし、読み始めたらあっという間。さすが。

平安末期、鎌倉時代を目前とした時代。坂東武者の家に生まれた草十郎が主人公。腕は立つが、人と交わるのが苦手。ひとり、野山で母の形見の笛を吹く。平治の乱で源義平についたものの敗走。敗残した源氏の者たちを狙い襲う村人たち。一行とはぐれた幼い頼朝を救うため、傷つく草十郎。その結果、村人の首領、正蔵に拾われる。
王として人間の生き方を学ぶために鳥の王、カラスの鳥彦王が、湯治で傷を癒す草十郎のもとにやって来た。カラスと言葉を交わす能力を持つ草十郎。鳥彦王の話で義平が京で首を斬られたことを聞く。いてもたってもいられない。正蔵に頼み、京を訪れた草十郎は、六乗河原で死者の魂を鎮める魂鎮めの舞いを舞う少女糸世とその付き人日満と出会う。糸世の舞は、人前で笛を吹かない草十郎をして、笛を合わせたいという力を持つ舞であった。草十郎の笛と糸世の舞が出会ったとき、草十郎の目に、光る花びらが舞い落ち降り注ぐ姿が見えた。
二人の舞と笛の力は、天界の門を開き、天界の花を呼ぶ。その舞と笛は、誰もそれと知らぬうちに源頼朝の命を救っていた。しかしひとりその力に気づいた後白河上皇は、自らの寿命を伸ばすため、巧妙にその力を利用しようとする。草十郎のたっての頼みにより、草十郎の笛とともに上皇の運命を変える舞を舞う糸世。しかしその舞のなか、糸世は忽然とその姿を消す。
異界へ行ってしまった糸世を、鳥彦王とともに捜し求める草十郎の旅が始まる。果たして草十郎は糸世と再会することができるのか。

いいなぁ、物語は。もちろんこれは成長する物語。最後はハッピーエンドなのだが、少しもの悲しい気分。いや、大人になるってこういうこと。何かを得ることは、何かを失うこと。 しかし、ふたりはかけがえのないものを得た。
この作品はボーイミーツガール、少年と少女の出会いの物語。魅かれあう少年と少女。お互い不器用で意地っ張り、そのなかですこしづつ近づいていく二人。少女はいつだって少年より少し大人、そんなほろずっぱい物語。
しかし、物語はそれだけでない。権力に巻き込まれ、踊らされる人々も描く。上皇の家臣、傀儡の幸徳が有能であればあるほど、その哀しさが心にしみる。あるいは上皇の意ひとつで起こる、もののふの者たちの血なまぐさいいくさ。

芸能が、神や天に捧げられる時代の物語。しかし伝統とか権威に遠く、あくまでも自分たちの生きるために、自然に笛や舞が二人の傍にあったことがこの作品を好ましいものにしている。

登場人物もとても魅力的。人ではないが、カラスの鳥彦王は秀逸。それが故に、ラストの寂しさが際立つ。
強いていえば、糸世と背中合わせに居る「陰」の女性、悲嘆の姫、万寿姫についても。いやさらに言えば、村人の、そして盗賊の首領である正蔵だって、もっともっと書いて欲しい。糸世の付き人であった日満。後白河上皇。贅沢を言えばきりがない。しかし、そう思わせるほどの登場人物たち、それは設定が魅力的な人物もいれば、描かれた人物が魅力的な人物もいる。

600ページは長かった。しかし、もっと深く、もっと長く、読んでいたかったという読後感も事実。本当に素敵な「物語」。

蛇足:勾玉三部作「空色勾玉」「白鳥異伝」「薄紅天女」も言わずもがなオススメ。それぞれ「勾玉」がテーマになっているだけの単独の作品なので、気軽に一冊ずつ読んで欲しい。ぼくも久々に読みたくなった
2005.10.22 Saturday 21:17 | comments(0) | trackbacks(1) | 

はなうた日和(山本幸久) 集英社  ・・・ゆこりん


母親とケンカして家を飛び出し、一度も会ったことのない父親を訪ねた一番。だが父親は不在で、一番と同じくらいの歳の男の子が一人で留守番をしていた。一番はその男の子と一緒に父の帰りを待つことにするが・・・。「閣下のお出まし」を含む8編を収録。

日常の暮らしの中にもささやかな変化がある。それはうれしいことばかりではない。けれど、つらいときでも人々は、明日という未来に希望を持って生きている。そんなほのぼのとした情景がこの作品にはあふれている。心が温まる話ばかりだが、どれもその先を読みたいと思わせるものばかりだ。この先は読者の想像任せ?私としてはやはり作者にお願いしたいのだが・・・。
2005.10.20 Thursday 20:14 | comments(0) | trackbacks(1) | 

『柳生薔薇剣』 荒山徹 朝日新聞社 (聖月)

柳生薔薇剣
柳生薔薇剣
荒山 徹
 縁(えん)とか縁(えにし)とか一口で言っても、そこには様々な種類の縁が存在するような気がする。

 例えば、司法試験とか憧れの大学を何回も受けて、結局は自分の身の丈にあった進路を選ばざるを得なかったとき、親戚知人が、もしくは本人が“縁がなかったんだよ”と慰めもしくは言い訳の言葉を口にするのは、これは縁ではない。能力がなかっただけ、もしくは努力が足りなかっただけの話である。

 例えば、人気作家やプロ野球選手が、その実力は認められているものの、中々賞とかタイトルというものを取れない場合も、縁がないなんて言葉を使うかも知れないが、これもTPOに合った努力が足らない結果ではないのかな。
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2005.10.20 Thursday 05:37 | comments(0) | trackbacks(1) | 

『空中庭園』 角田光代 文春文庫 (トラキチ)


角田 光代 / 文藝春秋(2005/07/08)
Amazonランキング:4,063位
Amazonおすすめ度:
家族も他人同然
明確な答え
不安定でもやっぱり家族



『対岸の彼女』の対岸に位置する作品

今、もっとも活躍している作家の一人と言える角田光代さんの実質出世作となった作品。
衝撃的な書き出しで始まる本作は、小泉今日子主演で映画化され現在ロードショー中。
あたしはラブホテルで仕込まれた子どもであるらしい。どのラブホテルかも知った。高速道路のインター近くに林立するなかの一軒で、ホテル野猿、という。

「何ごともつつみかくさず」というモットーを持って生きている郊外のダンチに住む、父・貴史と母・絵里子、高校生のマナ、中学生のコウの4人家族。現代社会における象徴的とも言える核家族が持っているそれぞれの隠された秘密が徐々に露わになって行く・・・
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2005.10.16 Sunday 23:23 | comments(1) | trackbacks(2) | 

動物記(新堂冬樹) 角川書店  ・・・ゆこりん


母親を失い、人間の手によって育てられることになった子グマたち。雄はアダム、雌はイヴと名づけられた。だが、この2頭を待っていた運命は過酷なものだった・・・。ある1頭のグリズリーの生涯を描いた作品を含む3編を収録。

人間は忘れてしまった。自分たちも自然の一部だということを。そして、人間もほかの動物も、生きているということでは同等だということを。人間がもう少しほかの動物を思いやる心を持ったなら、グリズリーのアダムも、ジャーマン・シェパードのシーザーとミカエルも、こんな悲しい生き方をしなくてもよかったのだ。人は自然に対してもっと謙虚であるべきだ。そうでなければ悲劇を繰り返すことになる。小学生の頃読んだシートン動物記のように、大自然のすばらしさを感じることのできる作品だった。
2005.10.15 Saturday 15:46 | comments(0) | trackbacks(0) | 

「江戸群盗伝」半村良

強きを挫いて弱きを助く、庶民的カタルシスの受け皿としての義賊。人間にはそういうフィクションを好む血が流れている。富が特権階級に集中し、社会階層がはっきりと分離した社会には必ずといってこういう物語がフィットするものだ。鼠小僧次郎吉しかり、怪盗ゾロしかり、権勢をほしいままにして貧困にあえぐ庶民を抑圧する権力者を懲らしめて富を還元するスーパースターは物語の枠を越えて伝説化され、法秩序の埒外に位置付けられる。
現代においても東ティモールや南米各地に存在する分離独立派の武装集団などはこのようなフィクションを投影され、現地において歓迎されている。宗教的情熱に昇華された原理主義テロ組織やアフリカに多発する軍事クーデターも含めて、すべて闘争の根源は貧困と抑圧に求めらるといっていい。彼らは正義を掲げて既存の統治機構に対峙するのだ。
だが、この現実の免罪符が長期的には貧民層のためにならないことが多いのもまた、歴史の証明するところだ。解放者がそのまま抑圧者の座にスライドし、旧態依然とした災禍を生み出す事例は枚挙に暇がない。
哀しいことだけれどもそれが世の理であるならば、せめて物語の世界では賊は賊として、ある程度までは等身大に扱われるのを僕は望む。それは人間の本質を描くことにほかならない。
フィクションと生々しい人間性を抱え込んで互いに背反させない物語を成立させるのは至難の技だが、良質の悪漢小説はこの難しいバランスを見事に均衡させているものだ。
本書はタイトルにあるとおり、爛熟期の江戸を舞台にして盗みを芸と自認する盗人たちが技を競い合い、独自の掟や風習にしたがって交接する様を描いたものだ。江戸の風俗に通じた作者の筆致は物語に熱気を帯びさせ、有無をいわせぬ暴力で収奪するいわゆる「タタキ」を「外道ばたらき」として、名のある頭目が統べる各ギルドが連携して実力でこれを排除するなど、非道を厳しく律しながらも決して自分たちを社会正義になぞらえない悪人たちの個性的なキャラクターと相まって、濃密で快活な人間模様を屹立させている。
悪も正義も相対化させて一方を絶対視しないほろ苦い人間観に諧謔と色事を加味した、まさに大人の読み物だ。特段強調せずしてシニカルさや悪人の業をしっかり織り込んだストーリーテリングの冴えはも特筆されるべきだろう。また盗人たちの善行が社会に対する贖罪として描かれず、単なる野次馬的喝采を浴びるにとどまっているのが快い。
本書は、生真面目な社会派小説の多くに欠ける庶民の野次馬根性をきちんと写し取った痛快な時代短編連作であり、僕はこのスタイルを支持したい。

オススメ度★★★★
2005.10.12 Wednesday 12:49 | comments(0) | trackbacks(0) | 
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