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My Recommend Books !みなさんのオススメの本を熱く語り合いましょう!
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『空白の叫び』貫井徳郎
空白の叫び 上 空白の叫び 下 貫井 徳郎 2006年 小学館 上 P.582 下 P.572 ★★★★★ なぜこんなことになってしまったのか、原因がよくわからない。どこで選択を誤ってこのような事態になってしまったのか、いくら考えても思いつかなかった。ただわかるのは、もう引き返すわけにはいかないということだ。搾取される側に回るくらいなら、犯罪者になった方がいい。そのせいで警察に捕まったとしても、後悔だけはしないと己に固く誓う。これは、自分を守るための闘いなのだ。内なる声がそう言い続ける。 ごく普通の家庭に育ち、構いすぎる母親に、息子に無関心な父親、ぱっとしない成績と運動能力…自分を取り巻く何もかもが凡庸であることを嫌悪し、この先何十年生きようと、楽しいことなど何もないと考える久藤。 祖母と叔母の三人で暮らし、静まり返った広い家で、学校が終わってからの長い時間、二人の帰りを待ち侘び「どうして、僕だけ…」と己の身の不幸を嘆く、母親に見捨てられた、神原。 使用人を雇うほど裕福な家庭に生まれながらも、その恵まれすぎた環境や、端正すぎる顔立ちにコンプレックスを抱き、自分自身を嫌悪する、葛城。 生まれも育ちも、考え方も、生き方も、全く異なる三人の少年たち。 虐められる者から、虐める側へ変貌を遂げ、それでも、始終ざわつく心を抑えきれず、金で女を買っても、心が満たされないことに苛立ちを覚える、久藤の前に現われた新任教師。 祖母が亡くなった後、叔母に転がり込んだ遺産を、汚い手を使って搾取しようとする、神原の実の母親。 我が物顔で屋敷に出入りし、葛城に嫉妬し、寄生虫のようにまとわりつく、葛城の幼馴染でもある使用人の息子、英介。 まだ、たったの14歳の三人の生活を脅かす者たち…。 一線を越えてしまった三人が、送り込まれた少年院で、受ける惨い仕打ち。 そして、10ヶ月の入院生活の後…。 「殺人者となった少年は更生できるのか 後悔はしていない。罪を償ったとも思っていない――再スタートを切った三人の挫折を鮮やかに描き出す新機軸ミステリー」 舞台が少年法改正以前ということで…。 ものすごく読み応えのある本だった。 三人の少年たちが、それぞれに何を思い、どうして人を殺してしまったのか、そこまでの過程が丁寧に書かれていて、読んでてすごく引き込まれる展開で…。 でも、中学生相手に「性」を貪ろうとする、いい歳した女の人たちって…いるのかな? まともな大人が出てこない。 特に上巻の、少年院に送り込まれてからの三人の入院生活の部分は、すごくリアルで怖かった。 本当に少年院の中ってこんなんなのかな。 まあ、二度と入りたくないと思えるような所でないと困るんだけど、にしても…葛城の受けた仕打ちは、あまりにも可哀想な気もした。 いっそ植物のように生きたいという気持は、良くわかる。 退院後の展開は、まあ、そうなんだろうなぁ。 罪を犯した人間に対する世間の目も、遺族の思いも。 (ちょっと突飛な気もしたけど…) 成長するに従って、どんどん人間らしさを失っていく一人の少年の変化が、一番恐ろしかった。 彼だけが、具体的にイメージできなかったのは、あまりにも「普通」すぎたからかもしれない。 なので、このラストは仕方ないのかな、とも思える。 少年院の生活のとこ読んでるときに、昔のドラマ「不良少女と呼ばれて」を思い出してしまった。 あれも、確か少年院の中で結構な虐めにあってたなぁと…。
「光の六つのしるし」スーザン・クーパー byすの
「光の六つのしるし-闇の戦い1-」スーザン・クーパー(1981)☆☆☆☆★ ※[933]、海外、ファンタジー、ハイファンタジー、児童文学、光と闇、アーサー王伝説 <闇>の寄せ手が攻め来る時、 六たりの者、これを押し返す 輪より三たり、道より三たり、 木。青銅、鉄、水、火、石、 五たりは戻る、進むはひとり 児童文学、そしてファンタジーを語るとき、何度もぼくが言及してきた作品、それが今回久々に再読したこの作品。図書館で借りてきた本が昭和56年発行となっており、まさに僕が高校時代に初めて出会った本と同じ。もはや四半世紀近く前の作品かと思うと感慨深いものがある。しかし、思い出というのはどうしても美化するものなのか。再読してみて思ったのは、残念ながら、一冊の作品としてみた場合、それほど完成度が高い作品ではなかったのかなということ。光と闇の戦い、500年ぶりに生まれた<古老>の物語、確かにおもしろい。しかし、これは一冊の作品ではない、闇の戦い4冊+外伝1冊でこその作品、序章の一冊であったなと感じた。とはいえ、決してオススメでないという訳ではない。オススメの作品。ただ、この一冊で判断するのは勿体ない。 「闇の戦い」シリーズは、シリーズとして発行されていない「コーンウォールの聖杯」(2002年学研より復刊)という単独の作品から始まる。サイモン、ジェイン、バーニィというドルー家の三人の兄、妹、弟が、夏の間過ごすコーンウォールという港町で、メリィおじさんとともに古文書を解き明かし、アーサー王の失われた聖杯を探す物語。ファンタジーというより冒険小説の度合いが高い。大きな力を持つこの失われた聖杯を巡り、闇の手が迫り、追いつめられる子供たち・・。 その後、この聖杯をめぐる「光と闇の戦い」というテーマをふくらませ書かれたのが、この「闇の戦い」シリーズ。「光の六つのしるし」「みどりの妖婆」「灰色の王」「樹上の銀」の四冊。「光の六つのしるし」ではメリィがメリマン(実はアーサー王伝説のマーリン)という名で、そして「みどりの妖婆」ではドルー家の三兄妹(弟)も現われる。故に、未読の方が読まれるなら、まず外伝ともいうべき「コーンウォールの聖杯」からがよい。 冬至前日、いつもと違ううすら寒い雰囲気の漂う一日、11歳の誕生日の前日を迎えたウィル、スタントン家の9番目の末っ子、あるいは七人兄弟の七番目(特殊な能力を持つと言われている)は、近所の農場主ドースンさんから、鉄で出来た平たい輪で十文字に交差した二本の線四つに仕切られた飾りのようなものをもらった。 そして、翌日。11歳の誕生日。それは、この500年で最初で最後の<古老>の目覚めであった。<古老>とは、光と闇との戦いに身を捧げるべく、生まれながらに定められた運命の持ち主。<古老>の力を引き継いだウィルの使命は、六つの偉大な<光のしるし>を探し出し、護ること。<しるしを探す者>としてウイルの使命が果たされたとき、<古老>たちが、<闇>の力を滅ぼす方向に向けなければならない、三つの偉大な力のうちのひとつを動き出させることになる。 最後の<古老>の目覚めと時を同じくし、<闇>もまた目覚め、立ち上がる。<旅人>が徘徊し、<騎手>も現われた。偉大な導き手メリマンとともに、ウィルの<しるしを探す者>としての探索が始まる。ウィルは、果たして光の六つのしるしを探し出し、闇の寄せ手を跳ね返すことができるのだろうか。 物語は冬至の前日から、というと12月20日辺りからか、クリスマス、元旦を挟んだ、三週間ほど。舞台はウィルの住む、家、そして村を中心とした世界。振り返ると、とても、狭く、短い世界。しかし物語としては、壮大なものであったような印象を持つ。それは、<古老>たちが、同時に幾つもの次元、時間を生き、同じ場所で今現在と、数百年前を行き来する存在であったからであり、また大雪に閉ざされた村で、ウィルと<闇>の騎手が立ち向かう世界が、雷の鳴り響く嵐の中であったかもしれない。読み応えは確かにあった。 そして、また十一人という大家族の無邪気な末っ子が、古老として目覚めることで、家族のだれもいない世界へひとり向かい、どこかしら大人びていく。いつまでも無邪気でいられない、成長するということの哀しさ。それが大人になり、独立していくこと。少し早い、成長のドラマでもあった。 この作品のテーマ「光と闇の戦い」は、まさに西洋の二元論で描かれた。正義と悪。正義は気高く、崇高であり、それが故に情(なさけ)がない。使命を遂行するためには、多少の犠牲を伴うことは致し方の無いもの。それが故に物語では、迷い、闇にひかれる旅人が登場する。もとは光の<古老>の友人であった彼は、ある日、光の非情さを知り、闇によろめいてしまうのだ。その書き方は非情で、厳格。しかし、読者は旅人に対し同情はしても、共感はしない。なぜなら、光は最後まで信じるべきものなのだから。この書き方が、まさに西洋のそれ。個人主義の風土、信じるべき味方と敵をすっぱりと切り分ける。日本のような曖昧さを赦さない。 これを、最近再読した「空色勾玉」荻原規子http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/14771799.htmlの描く、日本のファンタジーとしての「光と闇」と比べると、とても興味深い。荻原も「光」をその気高さゆえに情け容赦のない存在として書く。しかし、その一方で「闇」に引かれる人間の弱さを好意的に描く。いや、「闇」自体の書き方が違う。荻原にとって、あるいは日本人にとって、「闇」とは、決して「光」に相反するものでなく、表裏にあるもの。 どちらが正解ではない。一読者として、ぼくはどちらの書かれ方も納得し、共感した。そして、その矛盾の中で、それぞれを考え、生きてきた、成長してきた。それは、とても有用で、誇れるものであったと思う。そういう意味で、ぜひ、若い人たちに、そして全ての本読み人に、出会うべき時期にこれらの作品を、どちらでなく、両方とも読んでほしい。そして考えて欲しいと願う。 蛇足:本シリーズは、アーサー王伝説をモチーフにしている。本作品ではほとんど触れられてないが、その下敷きがあるということを意識し、あるいは知っているともっとおもしろい。 蛇足2:本作品は、映画化の話も出ているよう。ちょっと楽しみ。読むなら今のうちですよ!(笑) ※参考blog「見てから読む?映画の原作」 http://hamchu.exblog.jp/1909227/ http://hamchu.exblog.jp/2312653/
「空色勾玉」荻原規子 written byすの
「空色勾玉」荻原規子(1988)☆☆☆☆☆ ※[913]、国内、古代、上代、小説、児童文学、ファンタジー、ハイファンタジー、古事記、延喜式、光と闇 この本も何度読み返したことだろう。初めて読んだのは大学時代、所属していた児童文学サークルの読書会。作者は同じ学部学科卒の先輩。あとがきで作家本人語るようにこの作品は、よき日本のハイ・ファンタジー(本格ファンタジー)。その後、同氏は出版社を変え、「白鳥異伝」「薄紅天女」、空色三部作と称される作品を発表する。どの作品も同じ勾玉をモチーフにした単独作品。それぞれがとても素敵な物語でどれもオススメ。今回は、久しぶりに同氏が上梓した時代ファンタジー「風神秘抄」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/14164051.html ]を読んだことをきっかけに再読してみた。 この作品は大人も楽しめる、日本の古代の伝承、風俗を土台にしたハイファンタジー。しかしこの作品は、児童文学として漢字にルビ(ふり仮名)をふって出版したことが、作品を最も活かす形態であったと改めて感じる。高光輝大御神、照日王、月代王、闇御津波大御神、輝の御方、闇の氏族、大蛇の剣・・・これらの言葉を見たままの漢字で読んだとしても、素晴らしい作品である。しかしこれらの言葉にルビがふることで「たかひかるかぐのおおみかみ」「てるひのおおきみ」「つきしろのおおきみ」「くらみつは」「かぐのおんかた」「くらのしぞく」「おろちのつるぎ」と、作家の意図する、上代(=仮名以前時代)のことばで、読者は読むことができる。この読み方が作品の世界にリアリティーを増し、またその世界に読者を引き込む。とくに「闇」を「やみ」でなく「くら」と読ませること、その音のやわらかさが、この漢字の持つマイナスのイメージを払拭させる。この作品では「光と闇(やみ)」というふたつの対立がテーマであるが、西洋のファンタジーのそれと違い、簡単な二元論ではわりきれないものとなっている。闇=悪ではない。このことがこの「くら」という音の選び方によって支えられている。 羽柴の郷の十五歳の娘、狭也。幼い頃、餓死寸前で山をさまよっていたところを拾われた。小さい頃から同じ悪夢にうなされていた。いつも六歳の狭也が五人に鬼に追われるというもの。歌垣の夜、ついに狭也は生意気な少年、鳥彦をはじめとした五人の鬼に出会う。歌垣の楽人を名乗る彼らの正体は、狭也たちの村が信奉する輝の御方に敵対する闇の氏族。狭也を、闇の氏族の水の乙女の継承者、狭由来姫の生まれ変わり、闇御津波大御神に使える巫女として、迎えに来たという。 光と闇の物語。それは天地(あめつち)のはじめの物語。男神と女神が力を合わせ豊葦原の中つ国を生み、国中を八百万(やおよろず)の神々で満たした。最後に火の神を生んだ際の火傷がもとで女神は黄泉の国へ隠れた。女神を取り戻しに死の国へ向かった男神だが、その変わり果てた姿を見て地上に逃げ帰る。そして千引の岩で通い路を塞ぎ、女神と永遠に縁を切ったのだった。そのときからこの二柱の神々は天と地に別れ憎しみあうようになった。光と闇が別れたのだ。大御神は女神を憎むあまり、照日王と月代王という不死の御子を地上に配し、ふたりで生んだ八百万の神をこの地上から一掃し、全てを光の統治の下に治めようとしている。しかし、それは殺戮と略奪の統治。すべての生命は大地によって育まれている。そして、それは二柱の神が生んだ山川の神々があればこそ。しかし、今二人の御子神はそれらの神々をなきものにしようとしている。一緒にこの豊葦原の命を守るため闘ってほしい。岩姫という老婆が、狭也に語りかける。 しかし、狭也はその申し出を断る。わたしはこの村で、長い間輝大御神を信じて生きてきた。大御神に刃向かう人がいるから戦が起こるのだ。申し出を断られた闇の氏族の五人は、狭也を迎えにきた時期が遅すぎたことを知り、空色の勾玉を狭也に残し去っていく。ひとり残された狭也は、行くべき場所もなく、また自分が村の人と違うことの孤独を知り、山中をあてもなく歩き続けた。そして大御神の二人の御子の一人、月代王に出会う。狭也は月代王の采女としてとりたてられるであった。 狭也の輝の宮での、采女としての日々。大いなる神の御子にとって、狭也はたくさんの采女のなかの一人であって、狭也が夢見たようなたった一人の相手ではなかった。そんな狭也を闇の氏族のひとりとして、冷たい視線を向ける月代王の姉、大御神の御子の一人、照日王。 ある日、狭也のもとにおつきの童として、鳥彦が現われた。しかし、鳥彦は照日王によって大祓いの生贄である形代に選ばれてしまう。鳥彦を助けるために宮の中を探しめぐる狭也。そこで出会ったのは大御神の第三子である稚羽矢。照日王に縄で縛められていたのであった。不死の神々をも倒すことができる剣、大蛇の剣(おろちのけん)の遣い手、稚羽矢と、大蛇の剣を鎮める水の乙女、狭也との出逢いであった。 狭也とともに輝の宮を抜け闇の氏族のもとへ向かう稚羽矢。闇の氏族の古い言い伝えによれば、大蛇の剣を自在に操り振るうことのできるたった一人の者を、風の若子と呼ぶ。闇の側に水の乙女と風の若子の二人が揃った。 闇(くら)と光の最後の決戦の火蓋が、いま落とされようとする。最後に勝つのは、闇か、光か・・。 この作品の魅力を語りだせば、きりがない。まず古代の伝承「古事記」「延喜式」といった上代文学を土台にした、リアリティーにあふれる、構築されたファンタジーの世界。光と闇、天と大地、不死と限りある生命、しかし、その生命は移り変わり繰り返される、男と女・・・種々な二つの対が単純な二元論に終わらず、求め合うように、魅かれあうようにすすむ、骨太で壮大な物語。この物語には絶対の正義や悪はない。 そして、この物語を支える丁寧に書かれた魅力的な登場人物たち。 闇の氏族の巫女でありながら、それを知らず輝を信奉する村で育った狭也。出会う人々と、出会う事件を通し、揺れ動く心。 大いなる力を持つ不死の神の御子でありながら、限りある生をしか持たぬ闇の氏族の人々とともに、狭也とともに輝の軍と戦う稚羽矢。輝の御子として、そして不死の力があるゆえに疎まれ、不死の力ゆえに生ありながら、死の苦しみを味わう運命。 命を落としたあとも、狭也のためにカラスに身を移す鳥彦。(鳥彦はこの後、鳥彦王を名乗り、この存在は「風神秘抄」につながる)。不器用な稚羽矢に稽古をつける開都王、この師匠と不出来な弟子の関係というエピソードが、作品のなかでおこる哀しい事件を際立たせる。あるいは狭也のおつきの女性、奈津女とその夫、柾の物語。神々はその大いなる存在ゆえに残酷なまでに「情(なさけ)」が無い。はっとするような行動、事件も神々の論理の中では些事に過ぎない。その神々である大御神の御子である輝日王にしても、月代王にしても、大御神という神の下では、小さな存在。その哀しみ。黄泉の国の女神の存在感。そしてさらに古いわだつみの神。 ボーイ・ミーツ・ガール、あるいはガール・ミーツ・ボーイ、少年少女の恋愛譚、そして若者の成長譚も忘れてはいけない。しかし、この最後は本当にハッピー・エンドなのだろうか? 単純でない構図のこの物語を読むとき、ぼくたちは「物語」のおもしろさを味わい、「物語」に秘めた作家の想いを知り、そして人が生きるということの意味を考えるだろう。この作品は物語好きな人に、本当にオススメだ。 蛇足:決して似ている訳でないのだが、同じ古代に舞台が重なる当時ぶーけに連載していた「イティーハーサ」水樹和佳が思い出される。とてもよいハイ・ファンタジーコミックであった。 蛇足2:西洋の、光と闇の戦いを書いた作品もおもしろい。「光の6つのしるし」スーザン・クーパーに始まる、「闇の戦い」シリーズもオススメにあげておく。 蛇足2:本感想を書き上げた際に、本書について書かれたとても素晴らしい書評(ブログ)があったので、ここに勝手に紹介する。「ぽちぶくろ」[ http://pochimi.cocolog-nifty.com/pochi/2004/12/post_4.html ]。
「風神秘抄」荻原規子 written byすの
「風神秘抄」荻原規子(2005)☆☆☆☆☆ ※[913]、国内、中世(平安時代)、小説、ファンタジー、中世、舞、笛、鳥の王、物語、児童文学 勾玉三部作の番外編とも言える、荻原規子の時代ファンタジー。今回は前三部作での同一テーマ、勾玉は出てないのだけれど、日本の近代以前の時代を舞台にした時代ファンタジーとしては一連の流れと言える。 久々に、とてもよい「物語」に出会えた。600ページ近い厚さは、ちょっと腰が引けた。しかし、読み始めたらあっという間。さすが。 平安末期、鎌倉時代を目前とした時代。坂東武者の家に生まれた草十郎が主人公。腕は立つが、人と交わるのが苦手。ひとり、野山で母の形見の笛を吹く。平治の乱で源義平についたものの敗走。敗残した源氏の者たちを狙い襲う村人たち。一行とはぐれた幼い頼朝を救うため、傷つく草十郎。その結果、村人の首領、正蔵に拾われる。 王として人間の生き方を学ぶために鳥の王、カラスの鳥彦王が、湯治で傷を癒す草十郎のもとにやって来た。カラスと言葉を交わす能力を持つ草十郎。鳥彦王の話で義平が京で首を斬られたことを聞く。いてもたってもいられない。正蔵に頼み、京を訪れた草十郎は、六乗河原で死者の魂を鎮める魂鎮めの舞いを舞う少女糸世とその付き人日満と出会う。糸世の舞は、人前で笛を吹かない草十郎をして、笛を合わせたいという力を持つ舞であった。草十郎の笛と糸世の舞が出会ったとき、草十郎の目に、光る花びらが舞い落ち降り注ぐ姿が見えた。 二人の舞と笛の力は、天界の門を開き、天界の花を呼ぶ。その舞と笛は、誰もそれと知らぬうちに源頼朝の命を救っていた。しかしひとりその力に気づいた後白河上皇は、自らの寿命を伸ばすため、巧妙にその力を利用しようとする。草十郎のたっての頼みにより、草十郎の笛とともに上皇の運命を変える舞を舞う糸世。しかしその舞のなか、糸世は忽然とその姿を消す。 異界へ行ってしまった糸世を、鳥彦王とともに捜し求める草十郎の旅が始まる。果たして草十郎は糸世と再会することができるのか。 いいなぁ、物語は。もちろんこれは成長する物語。最後はハッピーエンドなのだが、少しもの悲しい気分。いや、大人になるってこういうこと。何かを得ることは、何かを失うこと。 しかし、ふたりはかけがえのないものを得た。 この作品はボーイミーツガール、少年と少女の出会いの物語。魅かれあう少年と少女。お互い不器用で意地っ張り、そのなかですこしづつ近づいていく二人。少女はいつだって少年より少し大人、そんなほろずっぱい物語。 しかし、物語はそれだけでない。権力に巻き込まれ、踊らされる人々も描く。上皇の家臣、傀儡の幸徳が有能であればあるほど、その哀しさが心にしみる。あるいは上皇の意ひとつで起こる、もののふの者たちの血なまぐさいいくさ。 芸能が、神や天に捧げられる時代の物語。しかし伝統とか権威に遠く、あくまでも自分たちの生きるために、自然に笛や舞が二人の傍にあったことがこの作品を好ましいものにしている。 登場人物もとても魅力的。人ではないが、カラスの鳥彦王は秀逸。それが故に、ラストの寂しさが際立つ。 強いていえば、糸世と背中合わせに居る「陰」の女性、悲嘆の姫、万寿姫についても。いやさらに言えば、村人の、そして盗賊の首領である正蔵だって、もっともっと書いて欲しい。糸世の付き人であった日満。後白河上皇。贅沢を言えばきりがない。しかし、そう思わせるほどの登場人物たち、それは設定が魅力的な人物もいれば、描かれた人物が魅力的な人物もいる。 600ページは長かった。しかし、もっと深く、もっと長く、読んでいたかったという読後感も事実。本当に素敵な「物語」。 蛇足:勾玉三部作「空色勾玉」「白鳥異伝」「薄紅天女」も言わずもがなオススメ。それぞれ「勾玉」がテーマになっているだけの単独の作品なので、気軽に一冊ずつ読んで欲しい。ぼくも久々に読みたくなった
『戒』 小山歩 新潮社 (すの)
「戒」小山歩(2002)☆☆☆☆☆ ※[913]、国内、小説、ファンタジー、物語、舞、日本ファンタジー文学大賞優秀賞 読め!読め!とにかく読め!この作品をこのまま埋もれさせてはいけない。消失させてはいけない。 図書館に走れ!本屋に走れ! やっと見つけたネットでの書評で、この作品を隠れた名作と評する人がいた。 至極、同意。なぜ、これほどまでに、誰も知らないのか?ネットでもほとんど書評を見かけない。 酒見賢一を生み、昨年度は「ボーナス・トラック」(越谷オサム)で本読み人に確かに評価される作品を生んできた、日本ファンタジー文学大賞の2002年度優秀作。個人的には、この賞を不遇の文学賞と呼んで久しいが、この作品を埋もれさせたままにしておくのは、本読み人として忍びない。故に、再読し、ここに遍く本読み人に薦める。いいから、読め。騙されたと思って読め。文句があれば、言ってくれ。読まないことには始まらないのだ。 そして、ほんの少しでも心の琴線に触れたなら、誰かにそっと薦めて欲しい。そんな一冊。 戒、戒、家がないから小屋に住む。戒、戒、家がないから小屋に住む・・・ 帯沙半島の沙南で戒の墓が見つかった。戒とは、紀元頃、沙南地方に生きたとされた伝説の奇人。歴史上の嫌われ者。身体は人間だが、顔は真っ赤な猿の顔。舞舞いで、沙南の小国・再の国の王、明公に取り入り、彼を誑かし、堕落させ、再を滅亡の縁に追いやった逆臣とされていた。しかし、この度発見された戒の遺体の下に敷かれていた護り布には、湖妃の字で、たった一言「再王」とだけあった。湖妃は明公の正妃で、滅亡の縁にあった再国において、明公を支えた賢母ともいう人物。戒を憎んでこその人物が、なぜ戒の冥福を祈願していたのか。古代帯沙半島で、彼らに何が起こっていたのか・・。 戒は、再の延毅将軍の第一子、延毅将軍の第二婦人晶婦人を母に持つ。再の国王となる公子明より三日早く生を受けた。その関係より、母晶婦人は公子明の乳母となり、戒と公子明は乳兄弟として、ともに育った。晶婦人の戒への教育は、徹底して、公子明をたてることを教えた。聡明な戒は、幼い頃から愛する母の教えを頑なに守り、公子明をたて、陰になり、道化に徹して生きてきた。やがて再の王となった明公をたてるため、家を捨て、舞舞いとして、宮廷の広間に小屋を建て住む。天賦の舞の才能で、人々を心の底から感動させても、道化の姿にまどわされ、誰も正当に戒を評価しない。ただの戯れ、道化だと信じている。ごく一部の真に聡明な者を除いて、誰も、戒の本当の姿を知らない・・。 再読して、心が震えた。 再と、再の王明公に徹底して仕えた戒の姿を描くこの作品。幼い頃より、戒の本当の姿を知っていた幼馴染、湖妃との恋も、自ら身を引く戒。戒を、己を唯一頼む相手として結婚したはずの旅の踊り子夏雨は、その奔放さより、いつしか都の人々に受け入れられており、一抹の寂しさを覚える戒。旅先で知った、己の出生の秘密に驚く戒。道化のはずの戒が迷う。迷えば迷うほどはまる心の迷宮。しかし、戒は自らが愛されていると知ったとき、ただの舞舞いにもどる。再の国を守るため、両軍合わせて四万という大群の間で戒は舞う、たった独りで、四日四晩舞う覚悟をした戒。そのとき奇跡は起こった。スペクタクル映画のいちシーンかと思うほどのラストシーン。 悲痛に舞う戒の姿に、涙を流し得ない。なぜお前は、そこまでして舞うのか・・。 22歳という若さで受賞したこの作家、いや若さはどうでもよい、残念なのは、このあとに作品の発表がない。とても、期待している。この作品こそまさしく日本ファンタジー文学大賞が生んだ、巨匠酒見賢一の正統な後継者の作品と思っている。歴史小説の体をとり、あたかも史実のように語る、その語り口。酒見賢一は二人はいらないが、小山歩として、ぜひ「戒」に劣らぬ作品を発表して欲しい。切に待ち望んで、もはやニ年経つ・・。 正直、佳作かもしれない。しかし、読む価値はあり。絶対に。 蛇足:この作品を読んでいて、「愛のアランフェス」「昴」「SWAN」「アラベスク」などの、踊りや、バレエ、フィギアスケートを扱ったマンガを思い出した。物語や、マンガで、舞いを伝えることができる作品って、やはりスゴイ。
『猫泥棒と木曜日のキッチン』
猫泥棒と木曜日のキッチン 橋本 紡 この本を読み終えたのは山手線の車内だった。品川駅で降りるつもりだったのに物語に引き込まれてしまって、気がつくと電車は浜松町に着いていた。降りて引き返したほうが早いのはわかっていた。しかし物語に引き込まれていたわたしにはその手間や時間すら惜しかった。ええいかまうものかと思った。このまま一周してしまえ。最後の一ページを読み終えて顔を上げると車窓の向こうに平凡な町並みが広がっていた。猫泥棒の少女と少年がそこにいる気がした。わたしは悔しくなった。なぜわたしは彼らと同じ食卓を囲んでいないのだろうか。木曜日のキッチンにいないのだろうか。本を読んだ後、こんな思いに駆られたのは本当に久しぶりだった。 「お母さんが家出した。あっさりとわたしたちを捨てた。残されたわたしは、だからといって少しも困ったりはしなかった。サッカーを奪われた健一君、将来女たらしになるであろう美少年の弟コウちゃん。ちょっとおかしいかもしれないが、それがわたしの新しい家族。壊れてしまったからこそ作り直した、大切なものだ。ちょうどそのころ、道路の脇であるものをみつけて……」 帯にはそんなあらすじが書かれている。主人公は17歳の高校生みずきで、彼女の一人称がみずみずしい。交互に健一による一人称のパートが書かれていて、こちらは打って変わってとても情熱的(ホレました!)。佐藤多佳子の『黄色い目の魚』と似た構造だが、橋本紡という耳慣れない作家は佐藤多佳子以上の技量でこの手法を使いこなす。みずきの目に映る健一、健一の目に映るみずき……それぞれの視点にわずかなズレがあり、そのズレが登場人物自身でさえ気づいてない彼らの内面を鮮やかに描き出している。 それにしても不思議な物語である。登場人物は皆なにかを喪失している。みずきは父親と母親を、健一は左足の自由を。しかし彼らはそのハンディキャップを乗り越えて確かな一歩を踏み出していく。彼らの歩みはたどたどしい。それに痛々しい。なのになぜかとても温かい。 この本を読んでいる瞬間は至福そのものだった。残り少なくなるページに脅えたほどだ。特に最終章の見事さには舌を巻く。これほど優しいエンディングは滅多に読めるものではないだろう。 とんでもない才能である。 未来の重松清が、未来の角田光代が、未来の瀬尾まいこが、ここにいる。
キッドナップ・ツアー 角田光代
キッドナップ・ツアー 角田 光代 なにをいまさらという本である。角田光代の記念碑的な作品であり、いまだに本作を彼女のベストと言い切る人も多い。達者な本読みが集まったマイレコで本作を紹介するなど、釈迦に説法並みの愚行であろう。それでもこの本を取り上げるのは、多くの良書を教えてもらったマイレコへの初投稿となれば、まず自分の一番大好きな本について書いてみたいという気持ちがあったからだ。愚行であることは重々承知の上で、お目こぼしいただければと思う。 物語はおじさんに少女がユウカイされるシーンから始まる。角田光代の実にうまいところは、ここでおじさんの正体をすぐには明かさないことだ。おじさんと少女は知り合いらしい。しかし関係はわからない。そのまま読み進めると、ようやくといった感じでおじさんが「お父さん」であることがわかる。そのあとの展開も、典型的なドラマツルギーをことごとくはずしながら進められる。少女はお父さんをまったく敬わないし、かといって毛嫌いもしない。お父さんは全然お父さんらしくないくせに、まったくの駄目人間というわけでもない。なにもかもが実に意図的な中庸(=中途半端)に置かれ、読者の安易な期待や想像をことごとくはずしていく。中途半端にダサい親子の逃避行は、まさしく中途半端にダサく、だらだらと続く。なのに、その光景がたまらなく美しく感じられるのはなぜなのだろう。文句を言い合いながら山を登る二人、浜辺で知り合った同世代の少女につまらない見栄を張ってしまう主人公、くだらないことに金を使ってしまう父親。父親の中途半端な駄目っぷりに、主人公の中途半端なスレっぷりに、一シーン一シーン胸が締め付けられる。 あなたは、父親や母親の小ささや、人間としての狭量を目の当たりにし、情けない思いをしたことがあるだろうか? あなたは自らの至らなさに悔しさを感じたことがあるだろうか? あなたは自らが子供でもなく大人でもないことに痛みを覚えたことがあるだろうか? わたしは、ある。全然かっこよくもなければかっこ悪くもない両親、その小市民っぷりに、ほとほと嫌気がさして泣きたくなったことがある。上司の不正に文句を言えず、見て見ぬ振りをしたことがある。そのとき、わたしは自らの臆病さにも目を瞑った。世間のせいにして全速力で逃げたのだ。 この本の中には、そういうことが書いてある。誰もが抱きうるさまざまな感情が、実にすばらしい表現で書きつくされている。いまだに読み返すことが多いのだが、何度読んでも、わたしはこの本の中に、かつての自分を、今の自分を、未来の自分を見る。そして人間という生き物の哀しさや、それゆえの美しさを見る。 本作の最後は、あっさりと訪れる。児童文学にありがちな、急展開でご都合主義の大団円など訪れない。中途半端な大人(父)と子供(娘)は、中途半端な愛情と諦めを抱いたまま、その関係を終える。その終わり方もまた、すばらしい。 率直に言って、ここ何年かの角田作品には失望することが多い。走り書きのような作品ばかりという印象さえ持っている。しかし、ことこの本に関しては、彼女は確かに人間という生き物をちゃんと描いている。その裏も、表も、描いている。
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